新道・掛蔵のこと

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通りの名称が決定しました!
掛蔵置屋通りかけくらおきやとおり

新道・掛蔵エリアのシンボル「小便小僧」の脇に位置し、牛屋小路・掛蔵小路とクロスする通りの名称が決定しました!掛蔵の中心を横切るこの通り沿いには芸者衆を抱える「置屋」が店を構えており、芸者衆の稽古する三味線の音が朝から小路に響き、お座敷に向かう芸者を乗せた人力車が行き交うなど歓楽街のにぎわいを見せていたといいます。「新道・掛蔵通り保存推進協議会」では、新発田の歴史と文化を広く伝えるために、このほど、この通りの名称を「掛蔵置屋通り」と決定しました。市民の皆さんに親しんでいただき、新道・掛蔵を訪れるきっかけの一つとなっていただけることを願っています。

新発田祭り

新道・掛蔵のこと

昭和30年代ごろまでの新道・掛蔵界隈は新発田市きっての繁華街であり、芸者衆を40~50人も抱え、活気に満ちていた。掛蔵はかつて武家町として栄え、新発田城の三の丸小路の奥に「掛蔵御役所」があり、藩の日用品や武器・武具などの製造が行われていた。掛蔵にある稲荷神社には、城下町らしい言い伝えが残る。初代藩主、溝口秀勝候が新発田城を築城するにあたり、兵学者、長井清左衛門に網張りを命じた。清左衛門が寝食も忘れて悩んでいると、どこからともなく一匹のキツネが現れて尾を引きながら指示をしてくれたという。清左衛門は感謝の気持ちを込めてお稲荷様を祀ったと伝えられている。
新道は江戸前期から昭和39年の町名変更まで使われた町名。新道どおりは旧上町・中町に並行する通りで、江戸期には三の丸の堀があり、武家屋敷と町人屋敷の境となっていた。明治維新後に堀は埋め立てられ、飲食店が立ち並ぶ歓楽街へと発展した。往時の面影を伝える味わい深い佇まいの建物が今なお多く残されており、静かに歴史を語ってくれる。

新道通り(しんみちとおり)

栄屋(現ひょうたん)の場所に製氷会社があり、その隣は畑になっていて、子どもたちが野球をして遊んだ。竹町に面して魚市場があった。映画館もあり、かつては「新富座」といったが、のちに「文映」へと名前を変えた。

むかし:昭和35年冬。1階部分が埋まるほどの大雪だった

いま:登録有形文化財に認定された建物が残る

掛蔵小路(かけくらこうじ)

新発田城の三の丸にあった小路。裏には「掛蔵御役所」があった。掛蔵稲荷の横に細い小路があり、数軒の置屋と小料理屋が並び、日本舞踊のお師匠さん(藤間流)もいた。

むかし:掛蔵稲荷の前にあった置屋「きばらし」の漆喰の壁

ポンポン小路(ぽんぽんこうじ)

現あおり館の場所には、昭和30年代頃までは御免町小学校が建っていた。角には桶屋があった。

むかし:昭和30年頃、御免町小学校体育館側

いま:市の地域交流センターが通りをはさんで建つ

稲妻小路(いなづまこうじ)

掛蔵から稲荷神社の脇を通り、三の丸へと抜ける。稲妻のように細くて曲がり角が多くあることが由来と思われる。傘をさせないほど狭かったため「からかさ通らん小路」とも呼ばれていた。

牛屋小路(うしやこうじ)

かつて、牛の乳搾り場があった。新道通りから見て右側には「朝日座」という芝居小屋があり、その先には料理屋なども並び、人力車で座敷に向かう芸者さんの姿も見られた。

三角小路(さんかくこうじ)

現在、小便小僧が置かれている掛蔵小路との間の三角形の広場では、櫓を組んで盆踊りが行われた。

昭和30年代頃。盆踊りで賑わう

栄町通り(さかえちょうとおり)

戦前はダンスホールなど街いちばんの賑わいを見せる通りだった。

むかし:昭和30年初期の登喜和鮨前。芸妓の歌子さん

いま:今も変わらず暖簾を構える登喜和鮨

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